LOGIN司は敵意を込めた目で霧島を睨みつけていた。一方の霧島は余裕の笑みを浮かべ、司の視線を正面から受け止めている。「え? あ、あの……もしかして二人は知り合い同士だったの?」沙月が恐る恐る問いかける。「……」しかし司は答えず、無言を通している。代わりに霧島が笑顔で答えた。「そうですよ、沙月さん。僕と天野は同じ大学だったんです。学部は違うけどね」「そ、そうですか……」突然名前で呼ばれ、沙月は困惑する。(どうして、こんな時に私を名前で呼ぶのかしら……)「霧島、人の妻を名前で呼ぶなと言っただろう! 大体、なぜお前が俺の妻の部屋にいる!?」司の声には苛立ちが滲んでいた。「だからさっき言っただろう? 家具を組み立てる手伝いをするためだよ。それに妻と呼ぶなら、何故別居してるんだ?」「それは沙月が勝手に家を出て行っただけだ! 」その言葉に、沙月の胸に怒りが込み上げる。「いい加減にして! 霧島さんは親切心で困っている私を助けてくれただけよ! 責めるのはやめて! それに私たち、もう離婚したのでしょう? 離婚届にサインをして渡してあるでしょう? あなたの方こそ、どうしてここへ来たのよ! 何故ここが分かったの!?」司は一瞬、視線を逸らし、低く答えた。「……まだ提出はしていない。契約は三年間だ。期限が来るまでは、俺たちは夫婦でいる義務がある。天野グループの力を使えば、お前の居場所など、どうってことは無い。すぐに探し出せる」「まるでストーカーだな」ポツリと小声でつぶやく霧島の言葉を司は無視する。「契約……? そんなもの、ただの口実でしょう!」沙月は強く反発した。すると霧島が、穏やかな笑みを浮かべながら口を挟んだ。「なるほど。契約を理由にしているのか。でも、期限を盾にしているのは、本当は未練があるからじゃないか?」「うるさい! 夫婦のことに口を挟むな!」司が声を荒げるも、霧島は肩をすくめて余裕のまま続ける。「強がっているけど、沙月さんを手放せないんだろう? 契約なんてただの言い訳に過ぎないさ」「……違う!」司は声を張り上げたが、その瞳はどこか揺らいでいる。沙月は言い合いをする二人の間に立ち尽くし、すっかり困惑していた。(どうして私のことなのに、二人がここまで言い合うの……?)すると司が乱暴に手を振った。「もういい! とりあえず霧島
彼の優しさに触れるたび、司に冷たい態度を取られた過去の出来事ばかりが思い出される。(もう司のことは忘れるのよ。私はここから新しい生活を始めるのだから)「ところで天野さん。その後、職場の方は大丈夫ですか?」不意に霧島が尋ねてきた。「はい、大丈夫です。今は平穏に仕事をしています」「そうでしたか。最近大きな人事異動があったようですが、環境が良くなられたのは何よりですね」「ありがとうございます」人事の件で、再び司のことを思い出した時。――ピンポーン突然インターホンの電子音が部屋に響き渡る。「……あら? 誰かしら? すみません、ちょっと確認してきます」「ええ、どうぞ」沙月は玄関へ向かい、モニター画面を覗き込んだ瞬間、息を呑む。そこに映っていたのは司だったのだ。「つ、司……!」(ど、どうしてここに……!? 何故私の引っ越し先を知っているの?)血の気が引き、身体が震える。思わず後ずさりしそうになったとき。「どうかしましたか?」霧島が背後から声をかけてきた。「あ、あの……」沙月は振り返り、言葉を失ったまま霧島を見つめる。(よりにもよって、霧島さんが来ている時に訪ねて来るなんて……! 最悪だわ……どうしたらいいの?)モニター越しに司の声が響く。『沙月……いるのは分かっているんだぞ。ここを開けろ』沙月は今の状況をどう回避すれば良いのか分からなかった。「天野さん? どうかしましたか?」青ざめる沙月に、霧島が心配そうに近づく。「あ、あの……」震える声で振り向く沙月。「失礼」霧島は沙月の肩越しにモニターを覗き込み、苦笑を浮かべた。「……あぁ。誰かと思えば、天野か……」「え? 霧島さん……?」モニター越しに、苛立ちを隠さない司の声が響く。『沙月、どうした? いるのは分かってる。早く開けろ』「開けてあげたらどうです?」霧島が穏やかに言う。「え……?」聞きたいことは山ほどあったが、沙月の喉は塞がれたように言葉を失っていた。それに何故か、霧島が何とかしてくれるような気もする。(だ、だけど……)胸の奥で鼓動が早鐘のように鳴り響く。それでもまだ躊躇っていると、ついに司はドンドンと扉を叩き始めた。(仕方ないわ……もう、なるようになれよ)沙月は震える手でドアノブを回し、扉を開けた。「沙月! いるなら何故さっさと扉を開
「どうぞ、お入りください」霧島に声をかける沙月。部屋は既に荷ほどきが終わり、すっかり奇麗に片付いている。「おじゃまします」続いて霧島が室内へ入り、周囲を見渡す。「へえ……僕と同じ間取りなのに、やっぱり女性の部屋は違いますね。華やかで明るい。素敵ですね」」「そう言っていただけると嬉しいです」生まれて初めて手に入れた一人だけの城。インテリアには沙月の好きなものが並び、こだわりが詰まっていた。それを褒められ、頬がほんのり赤く染まる。「それで、ベッドフレームはどこに?」「はい、こちらです」沙月は日当たりの良い寝室へ案内すると、部品は床に散らばったままになっている。「これですね?」「ええ、すみません。ごちゃごちゃしてしまって……自分で組み立てるつもりだったので。分かりづらいですよね?」申し訳なく思い、沙月は頭を下げる。「大丈夫ですよ。それくらいのこと、気にしないでください。それでは早速始めましょう」霧島は腕まくりをして床に座り込んだ。「あの……私も何かお手伝いします」「いえ、一人で大丈夫ですよ。天野さんはご自分のことをしていてください」笑顔で答える霧島に、沙月は少し戸惑いながらも頷いた。「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」そこで沙月はバスルームへ行くと、風呂場の掃除を始めた。****十五分ほどで掃除を終え、霧島の様子をそっと覗くと、組み立てはもう半分ほど進んでいた。(わざわざ組み立ててもらっているのに、何かお礼をしないと悪いわよね……)時計を見ると、時刻はすでに16時を過ぎている。沙月は霧島のためにコーヒーを淹れることにした。「天野さん、終わりましたよ」お湯が沸いた頃、霧島がキッチンに現れた。「本当ですか? ありがとうございます」「ベッドの位置、どこにすれば良いですか?」「はい、今行きます」寝室に戻ると、ベッドフレームはマットレスが置かれていた場所に設置されていた。「とりあえずこちらに置いてみましたが、どうでしょう?」「はい、ここで大丈夫です。本当に助かりました」「そうですか、良かった」そこで沙月は少し緊張しながら口を開いた。「あの……折角ですし、コーヒーでもいかがですか?」すると霧島の顔に笑みが広がる。「ありがとうございます。コーヒー好きなんですよ」「では、どうぞこちらへ」
――翌朝7時ピピピピ…… 四畳半の寝室にスマホのアラーム音が鳴り響く。「う~ん……」布団の中から沙月が手を伸ばしてアラームを止めた。「もう朝なのね……よく寝たわ……」身体を起こすと、思い切り伸びをし……改めて室内を見渡した。ブルーのカーテンの隙間からは太陽の光が差し込み、室内を明るく照らしている。フローリング床の上にはまだ未開封の段ボール箱が何箱も置かれていた。それらを満足して見つめると、沙月の顔に笑みが浮かぶ。「フフ……何だかまだ夢を見ているみたい。でもここが私の新居……」虐げられ、息が詰まるような窮屈だった白石家でも、居候の身分でも何でもない。この部屋は沙月の、自分だけの城なのだ。「今日中に全部の荷ほどきと、家具の組み立てをしなくちゃ」自分に言い聞かせると、沙月は朝の支度を始める為に布団から出た―― **** 生活に必要な家電は昨日のうちに全て設置済みだった。トーストに牛乳という極めて簡単な食事を済ませると、沙月は早速段ボールの荷ほどきを始めた。 15時半―― 「ふぅ……こんなものかしら?」床の上に無造作に置かれていた段ボールはほとんど片付き、ようやく1人暮らしの女性らしい部屋になってきた。ダイニングには小さなテーブルと椅子を置き、備え付けの棚には最低限の食器と調理器具が並んでいる。けれど寝室の隅には、まだ未開封の大きな箱……ベッドフレームが残されていた。「これを組み立てないと、今夜も床にマットレス直置きで寝ることになるわね……」箱を開封し、説明書を広げて部品を取り出してみる。だがネジや金具の数に目が回り、思わずため息をついてしまった。 「うぅ……思ったより大変そう……それに大きくて重いし、1人で組み立てるのは大変ね……」一瞬、脳裏に真琴の姿が浮かぶも首を振った。「ううん、駄目よ。真琴だって忙しいんだから。これからは自立を目指すって決めたのだから自分で何とかしないと。……もっと使いやすい工具を買えば、ひとりで組み立てられるかも」そこで沙月は工具を買うため、駅の近くにあるホームセンターに行くことにした。マンションの玄関を出た瞬間、沙月は思わず目を見開いた。 こちらに向かってくる霧島と目が合ったのだ。 「霧島さん……!?」 「天野さん……?」 「どうしてここに?」2人の声が同時に重なる。
沙月が機材室に閉じ込められた一件から、早いもので一か月が経過していた。その間、局内では様々な変化が起こっていた。まず澪は報道部からアナウンス部へ異動となった。表向きは「栄転」とされていたが、実際には報道部から遠ざけられた形である。沙月に対する嫌がらせを主導していた女性社員たちは、華やかな現場から外され、資料室や庶務課といった地味な部署へと回された。番組制作の最前線から外され、日々の雑務に追われる彼女たち。かつての勢いを失い、自分たちが馬鹿にしていた相手からこき使われる立場に逆転されてしまっていた。さらに報道部のデスクは降格処分となり、地方支局への異動が決まった。いつも威張り散らしていた彼の姿は、局内から忽然と消えたのだった。これらの人事異動は、天野グループのスポンサーとしての影響力が背景にあった。司が上層部へ圧力をかけた結果、沙月に嫌がらせをしていた局員たちを粛正した形になったのである。沙月はその変化に戸惑っていた。確かに自分を守ってくれる存在がいることは心強い。だがその相手が司だと言うことに複雑な心境を抱いていた。何故今頃になって自分の為に動いたのか、司が何を考えているのか、さっぱり分からずにいた。(でも、私も変わらないと……)周囲の環境が変化したことにより、沙月も以前から考えていた計画を実行することにしたのだった――****――よく晴れた土曜日の朝。沙月は真琴の部屋の玄関に立っていた。その向かい側には真琴もいる。「真琴、今まで本当にありがとう」ショルダーバッグを下げた沙月が笑顔で告げる。「沙月……本当に引越ししちゃうの? 私としてはずっとここで暮らしてもらっても良かったのに。何しろ沙月の手料理は最高に美味しかったもの」「アハハハ。今さら何を言ってるの? もうマンションの賃貸契約を結んでいるのに。手料理が食べたければ、いつでも作りに行ってあげる。もちろん、私の部屋に来てもらってもいいし」笑う沙月の顔は晴れやかだった。「うん……分かった。でもごめんね。引っ越し手伝えなくて……」「やだ、謝らないで。だって真琴はこれからオンライン業務があるじゃない。荷物は全部トラックで運んであるし、元々荷物だって殆ど無いから1人で大丈夫よ」「分かった……元気でね」「うん、真琴も」2人は玄関前で別れの抱擁をし、沙月は真琴に見送られ
沙月は驚いて司を見つめる。(司……! まさかつけてきたの!?)司は沙月の横を素通りすると、女性局員たちに近づいた。「彼女は機材室に閉じ込められていた。しかも中からは開けられないように外から鍵がかけられていた。そして、そのことについて彼女は一言も触れていないのに……君たちは機材室に鍵がかけられていたことを知っていた。一体どういうことだ!?」司の責める声が報道部に響き渡り、しんとフロアが静まり返る。相手は天野グループの若き社長。しかも局のスポンサーだ。これにはさすがのデスクも口を出せない。女性社員たちは青ざめたまま、小刻みに震えている。誰も司の視線を正面から受け止められない。「彼女はこの局に入ったばかりの新人だ。それなのによってたかって嫌がらせをしているとは……呆れたものだ」怒りを抑えた口調で語る司の背中を、沙月は信じられない思いで見つめていた。(司……どうして……?)「とにかく、このことは上に話を通しておく。もし、また彼女に同じような嫌がらせをした場合……天野グループはスポンサーから降ろさせてもらおう」「!」その言葉に報道部が凍り付き、デスクが慌てて駆け寄って来た。「天野社長! も、申し訳ございません! 彼女達には反省文を書かせ、天野さんには正式に謝罪させます! どうか、スポンサーを降りることだけは……!」いつも威張り散らしているデスクが平謝りに頭を下げているのを、沙月は信じられない思いで見つめていた。「それは今後の君たちの出方次第だ」司の声は冷ややかだが、有無を言わさぬ威圧感がある。そして次に司は沙月に視線を移した。「もう退社時間は過ぎている。そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」「え……?」するとデスクが笑顔を作り、沙月に話しかける。「そ、そうしなさい。顔色が悪いようだし」「……はい……分かりました」沙月は「お先に失礼します」と会釈すると、重苦しい空気の報道部を後にした。背後では、誰もが凍り付いたまま動けずにいた――****――翌日。「……おはようございます」恐る恐る沙月が出社すると、報道部の空気は昨日とはまるで違っていた。澪の手下だった女性社員たちは彼女を見ると、気まずそうに視線を逸らし、誰も直接嫌味を言う者はいなかった。デスクも妙に柔らかい口調で「おはよう。調子はどうだね?」と声をかけてくる。







